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 ――学校が、好きだった。


 単調な板書の音に引きずられて目を醒ますと、全くいつもと変わらない景色があって、混乱した。窓辺には強い日射しとそれを遮る白いカーテン。教室にそれとなく収まっている35人~42人の生徒達。14時36分を示す無骨なモノクロ時計。くたびれたコンクリートの匂い。そんな所に戻ってきている。
(夢か……)
 僕は、違和感の正体を決めつけた。ゆめ。ひどく切迫した心理を追った、典型的な悪夢。ただ、それを客観してみたとき、中身は大抵、強迫観念の幼稚な具象に決まっている。そして、だからこそ、なんのことか覚えていない。そのくせ、何か重要なヒントが有るかのように思えてるから厄介だ。逃した魚は大きいという心理がそこに働くのだろう。案外、自分の神経も安っぽいのだなぁと感じる。そうまとめたところで、チャイムが鳴った。
 大がかりな板書を終えた教官は何本かのアンダーラインを足した後、満足げにテストの範囲を告知して教室を後にした。左隅からめくり上げたらさぞ気持ち良いだろうな、という感想をよそに、精密な配色の成された板書を書き取る労力を計算してみる。――アウト。あれはアートであって講義内容ではない。手書きで保存するのは失礼なことだ。と言うわけで今日は退散退散。
「帰るのか、有賀」
 鞄を掴んだ所で声を掛けられた。……そう、確か今年になってから、この口やかましい友人が後ろの席になったんだっけ。
「日暮U」
「なんだ、その中途半端な発音は。しかもフルネームって」
「名前の綴りが思い出せない。苗字のインパクトに負けすぎだぞ、お前」
「そうか。なら覚えておけ。読みはYUでもYOUでも良いが、漢字は見ての通り、優しいの優だ。忘れるな」
 皮肉げに笑って、日暮優が無事に自己紹介を終えた。汎用的な発音の名前は覚えにくい。だが、こいつの場合は存在自体のインパクトだけで事足りた。儚げな名前とは裏腹に、本人は全ての平均点プラスを取る高性能キャラ。かつ美形で男前。人当たりも良い。女でさえなければ非常に潤ったスクールライフを楽しんでいたことだろう。全く羨ましい話だ。
「とりあえず、ホームルームまでは残っていろ。お前がいなくなると見通しが良くて敵わん」
「良いことだろ。ヅラ先生に毛穴の奥まで見つめて貰え」
「やなこったよ、ばか。問題児係として、黙って見過ごす訳には行かないしな」
 ニヤリ笑って、日暮は僕を席に着かせた。……ふん、随分魅力的な「ばか」を言うようになったものだ。ときめいてしまったじゃないか。からかわれるのが目に見えてるため言わないでおくが、僕の中での好感度を3つほど上げといてやろう。光栄に思え。

「あのさ」
「なんだい日暮さん」
「おう、その日暮さんから質問だ。何かの用事だったか? ……それ絡みの」
 低いトーンでの、ウィスパー。
 大切な暗号だった。
「いや、ただ何となく早く帰ろうとしただけだ。悪いな」
「そうか。いや、なら良いんだ。すまん」
 短く断り、会話が終わる。しばらくは、放って置いてくれるだろうと思って、回想する。
 それ絡み。
 先程は日暮の不適切な説明があったが、僕は決して問題児ではない。成績も生活態度も中程度の平均的な学生だ。容姿も、男子高校生のサンプルその10くらいに上げられるような汎用的スタイルだと思う。だが、僕の隠匿している秘密は地雷級なので、当然まったく普通の生活に見せかけると言うことは出来ない。何か、緊急の用事で教室を出ていくということも時々発生する。説明は出来ないが、とにかく非日常的な何かで突発的な行動を取り――結果、授業を欠席・早退するような事態を指して、こう呼ぶことになっている。
 この言い方は、日暮が考えたものだ。人と距離を詰めすぎない、という考え方をよく解った言葉だと思う。結局、そのことについては全く説明していないし、何も訊いてこない。僕にとっては都合の良い話だ。だから、たまに焼いてくるお節介は、原則的に受けることにしている。こういうギブアンドテイクも、有りと言えば有りなんじゃなかろうか。

 担任が教室に入り、プリント状の何かを配って説明を始めた。幾何学的な板書は、数人の生徒のことを思って消されないまま放置されている。カツラ先生は何度か後ろを振り返ってチョークを握るが、無言の圧力に負けて口頭での説明に絞ったようだ。頑張っていただきたい。内容は期末テスト範囲と、部活動の時間制限、駐輪場で発生した些細な事故と不審者の情報だった。何人かの安全そうな女子が浮かれ騒いでいる。今すぐに肩を叩いて安心させて上げたいとも思ったが、余り目立つのも人を貶めるのも良くない。平和な生活のためには、ガマンだ。
「えー、では、という訳でね、放課後はなるべく遅くならない時間で、えー、複数人で帰るようにね、して下さい。はい。早いですけれどもね、これで、ええ、解散します。あのー、くれぐれもね、他の教室の迷惑にね、ならないように」
『起立・気を付け・礼・さようなら!!』
「あー、きみたちー、ちょ」
 委員長の気迫を込めた号令で平日過程が終わる。いつもながら小気味よい光景だ。
 僕は友人たちから何かしらの誘いを受けた上で、それをキャンセルして日暮の方に向き直った。
「なあ」
「おう?」
 声を掛けられたのが意外なようで、日暮優は、少し目を丸くして僕を見た。ぶっきらぼうなようでいて、表情は豊かだ。そこもポイントが高い。
 ――なので、まぁ。
 ここら辺で溜めた好感度を使っても良いのでは、と考えた。
「話が有るんだけど」
「おう」
「付き合ってくれないか?」
 後ろの嫉妬ヴォルテージが跳ね上がった。友人達は、さっきゲームセンターに行こうと誘った口で、ケツ噛んで死ねと仰ってくる。とても心地良い。
 一方誘いを受けた日暮は、一瞬豆鉄砲を食らったカタチになりながらも、3秒で認識を修正し、
「分かった。付き合おう」
 と返事をした。聡い子は好きだ。ますます気に入ってしまいそうになる。友人達と、教室に残っていた一部の女子が見事なハーモニーを醸しだし、僕たちは束の間、ジャックポットを引き当てたような錯覚気味の熱気に包まれていた。

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