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 それは、酷く穏やかな日々の記憶。夢想。残響。言い方は何でも良い。言いたいのは、久我峰透に遭遇したあの日、僕の築き上げてきたささやかな平和が崩れ去ったという、ただそれだけの事実だ。言うなれば、僕の世界が久我峰と同化する以前、そこには微かな安らぎと奥行きと広がりがあって、今はそれが手に入らないと言う悔しさがあり、――それを発散する術として、過去を美化し、事件を痛み、偶然を呪い、運命を嫌悪するという負の選択肢があった。さっき漏れたのは、その未消化物としての単語だ。……さて、かくあるローテーションを経て、僕はこの新世界を可能な限り無視する事に決めていた。視線を文庫本に落とし、波風を立てるモノをやり過ごし、出来るだけ行動せず、待機する。息を潜めて死んだフリ。「ナマズみたいね」誰かがそう呟いて背後に座った。「まるで何かを待っているよう」……おかしなことを言う。ナマズは何も待ってやしない。鈍重に徘徊しながら、それでも生きているだけだ。お前にナマズの何が分かる。俯くと、左目になれない反射光が差し込んだ。僕は眼鏡をかけるようになっていた。別に視力など下がってはいない。単なる伊達だ。これも反抗の一種。チープだが、今の僕は限界が見えるまでひねくれてやるつもりだった。可能な限り。可能な、限り。思考が微弱なループに陥り、あるワードを掘り起こす。「そう、不可能は存在するんだ」久しぶりに聞いた自分の声は、ひどく不様にひび割れていた。笑う。「変なの」そいつは呟いてどこかに行ってしまう。追いはしない。無視しているから。僕は日向に引きこもりながら気付いてしまった。思い出してしまった。要するに戦っていたのは――自らの不全感とだったのではないか。無力感だったのではないか。何もできない自分に対する憎しみをただ周囲に転化していただけではないのか。立ち上がる。首を回し、視線を前へ。そこにはさっきから存在していたはずの絶対者が、僕を挑発的に観察している。「行くわよ」命令だ。コレに僕は従わなければならない。「今日こそは面白いところに案内しなさいよね」言い終わるや、鞄を投げつけて軽やかに駆け出す女。少女。――久我峰、透。「分かっているさ」呟いて確認した。これが新世界。僕は笑っている。アイツも笑っている。コレがこの世界のスタンダード。久我峰透を主人公に設定した、英雄物語。僕はそこに囚われてしまい、もう抜け出すことが出来ない。精一杯の抵抗だった停止は、今さっき……飽きた。「分かっては、いたんだ」鞄に縫い込まれた、椿を模した校章を、爪で少しだけ剥ぎ取った。「馬鹿げている。でも参加せざるを得ない。拒絶したい。でも動かざるを得ない。逃げ出したい。それでも進んで行かざるを得ない。コレがこの世界の筋道だ。お前という世界意志を設定された、お前に世界の一部だと認識された僕の役割だ。ふざけている。面白い。僕がアイテムというのならば、どこまで使いこなせるのか見せて見ろ。英雄にはその義務がある。責任がある。観察者を納得させるだけの素養が求められる。久我峰、僕はお前を試してやることに決めたぞ。お前が僕を、じゃない。僕がお前を試してやる。分かっているんだろうな小英雄。お前の目的を見届けるまで、僕はお前を決して許さないからな」――喋りすぎた影響か、喉の皮が内側で破れて、途中からは情けない声になってしまった。錆色の痰を吐き出す。久我峰はふむと1つ呟いて、ぱんと手を打ち、そのまま、緩やかな拍手を続けた。「おめでとう」祝われる。笑っている。喜んでいる。僕はだんだん居心地が悪くなって、八つ当たり気味に久我峰の顔を睨み付けた。すると、「ぱらぱぱぱっぱっぱー♪」綺麗な声で、誰もが知っているRPGのファンファーレを歌い上げた。「悟史が仲間に加わった!!」台詞付きだった。脱力する。そう、予想できていたことだった。ここは僕の知っている現実ではない。もっと馬鹿げたおとぎ話の世界だ。不意に手が差し伸べられる。「物語の世界へようこそ」迷わず手を取る。もう選択肢はないのだから。「さすがは私を読んだ人間だわ」彼女がそう認識したことで、僕の自意識が少しずつ甦り始める。そうだ。有賀悟史。17才。男。学生。妹持ち。帰宅部ランカー。そして、特異能力者。「超能力者という表現は嫌いだ」「私もよ」気があった。幸先が良い。「行きましょうか、どこか面白いところへ」「任せろ主人公。とっておきの不吉な場所を案内してやる」「楽しみだわ」視線で頷き有って、繋いだ手をポケットに戻す。これからが勇者の時間。僕はその装備。そういう時間が始まる。

 ああ、そうだ。
 これは蛇足な事だけれど、僕が発狂する以前の話――
 彼女との馴れ初めでも、語っていくとしようか。
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